- 創業
- フロンティアゆえの苦難
- 時代を見通す目—自動車販売への進出と業界の発展を支えて
- モータリーゼーションの到来と品川グループの構築
- 第三の創業
- 第四の創業 —(株)品川グループ本社の設立と100周年
III. 時代を見通す目—自動車販売への進出と業界の発展を支えて
1932年、品川自動車商会はようやく軌道に乗った路線バス事業を富山電気鉄道株式会社に譲渡すると、
自動車とその関連商品販売に進出し、日産自動車、三菱重工業と特約販売店契約を結んだ。
しかし、戦後、民主的なトヨタ自動車の経営理念に共鳴し、トヨタ自動車に転換。
以後、来たるべきモータリゼーションの波を予測するかのように、
自動車整備工業組合などを設立し業界発展を牽引した。
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1932年
品川自動車株式会社(現、富山ダイハツ販売株式会社)設立
富山電気鉄道(株)の市街一元構想に呼応し富山市のバス事業を譲渡約 -
1935年
富山市のタクシー6社が富山協同タクシー設立
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1937年
品川自動車、日産自動車(株)と特約販売店契約
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1939年
タクシー18社が富山交通株式会社設立
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1940年
品川自動車、三菱重工業(株)と特約販売店契約
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1941年
富山燃料製造株式会社(後、品川石油株式会社)を設立
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1942年
富山県自動車配給株式会社(現、富山トヨタ自動車株式会社)が設 立され、品川忠蔵が代表取締役に就任
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1946年
品川自動車、発動機製造(株)(現、ダイハツ工業(株))、中央ゴム工業 (株)(現、日本ダンロップゴム(株))と富山県総代理店契約
品川忠蔵、発起人となってトヨタ自動車販売組合を設立、理事に就任 山室工場に自動車整備技術講習所併設 -
1947年
品川忠蔵、自動車整備工業協同組合を設立
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1948年
品川自動車、東京支店開設(昭和30年廃止)
富山自動車商事株式会社(現、品川商事カンパニー)設立 -
1949年
富山トヨタ自動車山室工場(現、山室重機株式会社)、一級重整備工場第3号に認定される
1932年 バス事業を富山地方鉄道に譲渡し、自動車販売、タイヤ販売に進出
1932年、忠蔵は、富山電気鉄道株式会社(現、富山地方鉄道(株)、1930年設立)の佐伯宗義専務(当時)の懇請を受け、富山以東のバス事業を操車に譲渡した。当時、佐伯は、県内どこからも富山駅に60分以内で到達できる総合的な交通体系「富山県一市街化」づくりを推進していた。クルマの利便性、経済性の普及に力を注いでいた忠蔵は、「地方に便益を提供し健全なる交通の発達に資す」ため県内の交通機関を統一して交通体系網をつくりあげようとする佐伯の構想に深く共鳴し、バス事業譲渡を決断したといわれている。
富山市以東のバス事業を譲渡した以後忠蔵は、新たに品川自動車株式会社を設立し、タクシー・バス営業に加え、自動車・同部品・ガソリン販売を開始し、当グループの礎を整備していった。
1940年 富山県自動車修理加工工業組合の設立
自動車の増加とともに交通事故も起こるようになってきた。
自動車の安全性を保つには、自動車整備の技術向上が必要と考えた忠蔵は、自ら発起人となって富山県自動車修理加工工業組合を設立し、整備士の養成と技術向上に尽力した。
1941年 ガソリンを補うため、能登半島の亜炭鉱山を買収して燃料工場・富山燃料(株)(後品川石油(株)、品川商事(株))を設立
石油の輸入も途絶し、米をはじめ砂糖、マッチ、小麦粉、食用油が配給制になりました。深刻な資材不足から、金属回収令が施行され、家々からも仏像や火鉢などありとあらゆる金属製品が回収された。ブレーキは後輪だけ、ヘッドライトは中央に1個だけというクルマも登場し、自動車販売は大きな岐路に立たされた。ガソリンは重要物資輸送のトラックだけに割り当てられ、バス、タクシー、ハイヤーは強制的に代用燃料を使わなければならなくなった。代用燃料の多くはコーライト、木炭、薪だったが、性能はガソリンに比べるべくもない。忠蔵は能登半島輪島に近い町野に亜炭の鉱脈があることを聞き、渋る地権者を説得して鉱山を買収、富山燃料製造(株)を設立して、堀川泉町に工場を建設。代用燃料の製造を開始した。「自動車業界は全く救いの神のごとく喜んだ」と、伝えられている。
1942年 県下自動車販売店を統合して富山県自動車配給(株)が設立され、社長に選任
戦争の進行とともに国内の産業は軍需優先となり、産業の直接統制は企業統合から生産数量・原料資料の割り当て、価格、賃金の公定にまで及んだ。自動車と自動車部品は日本自動車配給(株)に統合され、下部機関が各県に設立。富山県にも富山県自動車配給(後、富山県自動車整備配給(株))が設立され、忠蔵が社長に就任ました。
1945年 終戦
空襲と敗戦に茫然と立ちすくむ人々のなかにあって、輸送力の確保が富山市復興の近道と考えた品川忠蔵は、一日も早い交通の復興と町づくりをめざして活発な活動を展開した。
1946年 富山トヨタ自動車販売設立―日産からトヨタ自動車への転換
終戦とともに各県自動車整備配給は、トヨタ自動車工業、日産自動車、ヂーゼル自動車工業(現、日野自動車工業)いずれかの販売系統に分離独立するよう指令された。忠蔵は、「一にユーザー、二にディーラー、三にメーカー」という豊田喜一郎の販売哲学に、モータリゼーションの将来性とトヨタ自動車の発展を確信して、日産コンツェルンを離脱。純国産車の開発に乗り出したトヨタ自動車系列に転換し、9月2日、富山県自動車整備配給を富山トヨタ自動車販売(株)(現、富山トヨタ自動車(株))に改称した。11月には忠蔵自身が、発足したばかりの全国組織、トヨタ自動車販売組合(現、トヨタ自動車販売店協会)の理事に就任した。
1946年 ダイハツ車、ダンロップタイヤの販売開始
忠蔵は空襲で焼失した富山市民の輸送力確保のためにと、品川自動車(1959年富山ダイハツ販売(株)に改称)をして当時いち早く製造を開始した発動機製造(株)(現、ダイハツ工業(株))の富山県総代理店となって三輪トラックの販売に乗り出し、次いで中央ゴム工業(現、ダンロップファルケンタイヤ(株))とも契約して統制品だったタイヤの確保をはかりった。
1946年 自動車整備技術講習所を併設した全国で3番目の自動車1級整備工場山室工場
敗戦直後、自動車は旧軍の放出車やGHQ(連合国総司令部)払下げ車、老朽化した戦前の車両しかなく、安全確保のためには整備技術者養成が急務と考えた忠蔵は、富山市山室に当時としては最大級の整備工場富山トヨタ自動車山室工場を建設。ここに、自動車整備技術講習所を併設する一方、自動車整備工業協同組合を設立して修理・整備の充実、向上をはかった。山室工場は1949年、全国で3番目に「自動車一級重整備工場」の認定を受けた。
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