- 創業
- フロンティアゆえの苦難
- 時代を見通す目—自動車販売への進出と業界の発展を支えて
- モータリーゼーションの到来と品川グループの構築
- 第三の創業
- 第四の創業 —(株)品川グループ本社の設立と100周年
Ⅱ. フロンティアゆえの苦難
富直線(北陸本線富山・直江津間)の全通で富山県が東京とつながったのは
1913年(大正2)4月1日、鉄道の普及も十分ではなかったこの時期、
市井の人々にとって自動車は高嶺の花、容易には普及しなかった。
潮目が変わったのは、 1923年9月1日に発生した関東大震災。
市内電車が市民の重要な足となっていた東京から横浜までの地域が地震で壊滅状態に陥るなか、
自動車が負傷者の搬送や被災者のための食料品、飲料水を輸送した。
一方、壊滅状態に陥った東京市は、被災者の足を確保するためフォード社から1000台のトラック車台を購入し、
乗り合いバスとして使用し、自動車の利便性が改めて人々に認識された。
これを機にフォードは横浜に日本フォード株式会社を設立し、
T型を1台1500円でノックダウン生産(現地組立・販売)を開始、GMも大阪に日本ゼネラル・モーターズを置いた。
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1927年
M.ミシュランとタイヤの輸入販売代理店契約
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1929年
品川忠蔵が中心となって富山県自動車学校(現、富山県自動車学園 富山自動車学校)を設立
1927年 ミシュランタイヤと輸入代理店契約
フロンティアゆえの苦難は多くあった。当時全国で道路として整備されていたのは総延長で370kmあまり(2015年4月1日現在:127万6857.4km)で、東京・大阪の中心地にアスファルト舗装が登場するのは1919年に制定された「道路法」「道路構造令」以降のことで、当時は首都東京の道路といえども、砂利を敷いただけの道だった。このためタイヤの摩耗は早く、1t積みT型フォードが1台2000円の時代に、年間360円もかかったという。このため忠蔵は、1927年1月17日、自動車用タイヤを世界で初めて実用化したフランスのミシュランタイヤと輸入販売代理店契約を締結してタイヤを確保。自らの事業のためだけでなく、当時県内に台頭してきた自動車運輸業者の便を図った。
1929年 富山県初の運転手養成所・富山県自動車教習所(現、学校法人富山県自動車学園)を創設
大正時代の運転手は、時代の先端を行く数少ない特殊技能の職業でしたが、市中を走る自動車数の増加に伴って運転者の技術向上に体系的な技能教育の必要性も高まった。自動車は一つ間違えば命にかかわる事故にもつながる。自動車販売店の経営者達にとっても、絶対数が少ない運転手の養成は急を要していた。
普段から運転技術の養成・向上だけでなく、車の整備技術にもことさら深い関心を寄せていた忠蔵は、1927年、自動車販売業者や車の所有者にも呼びかけて富山県自動車協会を設立、1929年10月、富山県初の運転手養成所・富山県自動車教習所(現、学校法人富山県自動車学園)を創設した。教習所は、県の協力を得て神通川廃川地の富山市安野屋に建設されたが、おりから世界恐慌の洗礼を受け、運営は苦難の連続だった。
教習所はその後、同地に富山県立神通中学校(現、富山県立中部高等学校)が建設されるのに伴って1932年に富山市牛島新町に移転したが、1945年8月の富山大空襲で全焼。戦後、忠蔵はその再建に奔走し、1960年、自らの私財も投じて富山市新庄の現在地に移転建設した。
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